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デュランダル(、香:)は日本の競走馬、種牡馬。馬群の大外から伸びてくる豪快な末脚を武器とし、世代交代の激しい短距離界において約3年にわたりトップに君臨し続けた。2003年・2004年と2年連続で中央競馬の最優秀短距離馬に選出。競走馬名の由来は、中世の叙事詩『ローランの歌』のなかで主人公の英雄ローランが使う聖剣の名デュランダル。全兄に中日スポーツ賞4歳ステークス優勝馬サイキョウサンデーがいる。父サンデーサイレンスで母の父がノーザンテーストという血統で初のGI馬である。 == 競走馬時代 == 母と兄姉はいずれも短距離戦を中心に活躍していた。2001年12月に競走馬としてデビュー。1番人気(単勝オッズ1.4倍)に応えて優勝した。その後脚部不安(骨瘤)を発症する兆候を見せたため休養がとられ、翌2002年8月に復帰(結果は2着)。その後条件戦を3連勝した。その後は重賞では力が及ばなかったものの2003年1月にオープン特別のニューイヤーステークスを優勝した。 同年3月の中山記念で9着に敗れたあと休養に入り、9月のセントウルステークスで復帰。出走馬中最速の上がりをみせ3着になった。このあと調教師の坂口正大はオープン特別のポートアイランドステークスに出走させる計画を立てていたが、セントウルステークスで騎乗した池添謙一の進言を受けてGIスプリンターズステークスへの出走を決定した。レースでは最後方からレースを進め、直線でビリーヴをハナ差(約15センチメートル)交わして優勝〔なお、最後の直線で最後方の位置取りからスプリンターズステークスを優勝したのはデュランダルが初めてである。〕。重賞およびGI初制覇を達成した。レース後、陣営は前年10着に敗れたマイルチャンピオンシップへの出走を決定。調教師の坂口いわく、馬の実力と1600メートルという距離への不安を抱えての出走であったが、このレースでも後方から直線で一気に他馬を差し切って優勝した。スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップの連勝が評価され、デュランダルは2003年のJRA賞最優秀短距離馬に選出された。 2004年、デュランダルは裂蹄を発症〔デュランダルの蹄は薄く、表層部に亀裂を生じやすい構造をしていた。調教師の坂口いわく、これはデュランダルの近親馬に共通する傾向であった。〕し、ステップレースを経ることなく、GI高松宮記念に出走。初の左回りコースや休養明けという不安材料がありながらも1番人気に支持された。レースでは後方から直線で追い込むも、サニングデールにクビ差及ばず2着に敗れた。レース後陣営は安田記念出走を目指したがレース1か月前に裂蹄を発症し、出走は断念された〔その脚質、距離適性から安田記念は絶好の舞台と言われていたが、結局一度も出走は叶わなかった。〕。 秋に入り、高松宮記念以来約6か月のブランクを経てスプリンターズステークスに出走。レース当日の馬場状態は追い込み馬に不利とされる重馬場となり、デュランダルは最後方から出走馬中最速の上がりを見せたものの逃げたカルストンライトオを交わすことができず、2着に敗れた。続いてマイルチャンピオンシップに出走。後方待機から出走馬中唯一3ハロン33秒台の上がりを繰り出して優勝し、同レース連覇を達成した。このあとデュランダルは香港の沙田競馬場で行われた香港マイルに招待され出走したが、レース当日に主催者が大量の水を馬場に散布する行動をとったため、デュランダルに極めて不利な馬場状態が形成され〔騎乗した池添は、同年のスプリンターズステークスのときよりも悪い馬場状態だったとしている。〕、結果5着に敗れた。この年、デュランダルは短距離GIでの安定した成績が評価され、2年連続でJRA賞最優秀短距離馬に選出された。 2005年、デュランダルは馬にとって致命的な疾病の一つである蹄葉炎を発症。競走生活の続行は不可能とされたが懸命の治療の結果、10月のスプリンターズステークスで復帰。レースでは後方待機から生涯最速の上がり3ハロン32秒7の末脚を繰り出したが、サイレントウィットネスに及ばずの2着に敗れた。その後史上初の日本中央競馬会 (JRA) 主催の同一GI3連覇をかけてマイルチャンピオンシップに出走、圧倒的な1番人気に推されたが、出走馬中最速の上がりを記録したもののハットトリックの8着に敗れた。このレースを最後に競走馬を引退し、社台スタリオンステーションにて種牡馬となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デュランダル (競走馬)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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